(写真:夫と小太郎) 書いてる人:ライラ
by XXhousewife
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ややこやしい?
わからないということと死者の視点
田口ランディさんのこのブログの内容に激しく同感。
最近、私を悩ませている(?)ものの正体は、これに近いような…。私にとって田口ランディさんという作家は、私の中にある漠然とした思い、正体を掴みかねるようなものを、言語化して分かりやすくしてくれる人の一人。
彼女のおかげでそれまでなんだかよくわからなかった自分の人生というものがずっと掴みやすくなった。
相変わらず「迷う」という意味では変らないけれど、正体も分からない中で迷ってることも知らずに迷っているのではなく、迷ってるんだな、ということを把握した上で迷えるようになった…という意味で、彼女が助けてくれたものは大きかったりする。
答えはいつだって出ない。
出るときもあるけど、その答えはランディさんの言うように「暫定的」で、その暫定的な立場で発言したものについて、責任を負って生きていかなきゃいけない。つまり、絶対的な安心感をくれる答えなんかないのだ。
自分は分かってない、ということを知っていても、その時その時、腹を立てることもあれば、他人に何かを要求したくなるときもある。でも、それが正しいことなのか、「こうしたい」「こうしてほしい」と思うことがあっても、それは何を大事にしてるんだろう?と考え出すと、私はどこかで自分を放棄する。
自分がしたいことを押し通すより、他人がして欲しいことに従う方が私にとってはずっと楽なんだ。
多分、今までで「自分の気持ちに従って行動した」と思っている事は勿論あって、でも、それについてあまり良い結果を得られていないのかもしれない。それは、自分の気持ちを他人に押し付けて、受け容れられても気まずかったり、拒否されたらすごく悲しくなったりしているような感じなんだと思う。
その経験が私に教えてくれるのは、私が意識する「自分がしたいこと」というのは、すごく他人が絡んでいるということ。自分が意識しないところの「自分がしたいこと」は、多分すごく普通に出来ているはずで。
自分が意識していない行動の中にこそ、幸せは沢山あって、意識する行動は逆にすごく不安定だったり、迷ってたりしてるんじゃないかなぁ、と。
つまりは、他人の中でしか「自分」を感じてないということなのかも。
他人との関わりの中で初めて登場する「自分」がいくら「私はこうして欲しい!」と他人の中で叫んでも、それは他人に求めているだけだったり、つまりは意識下にある「自分」とは他人に依存した存在なのか。
それって、私だけじゃないのかもしれないけど。他人に依存しない自分を持ってる人も沢山知ってる。
でも、私の場合は、まずは他人の中に自分を求めることを止めて、他人の外、そして自分の中にこそある自分をもっと自由にしてあげることが出来るようになりたいなぁ。
それはとっても解放感な気がするなぁ。
いや…、自分はすでに自由であることにただ気づけばいいだけの話なのかもしれない。
なんか、そう思うと最近、自分のアンテナが向く色んなことに納得するなぁ。
「なんでこんなにも惹かれるんだろう?」と思うものの全てが、そういうベクトルな感じ。
気づいた先にも、勿論悩みや葛藤はあるんだろう。
本当にまさに同じことを思う。多分、20代の時に今の「自分を恥じる」視点があったら、生きていけなかったと思う。迷い、悩み、あがくことに最適な年齢なんだろうな、と思える30代を過ごせているのは、まさに「おかげさま」。
生まれて良かったなぁ、と思える人生はいいもんです。
田口ランディさんのこのブログの内容に激しく同感。
最近、私を悩ませている(?)ものの正体は、これに近いような…。私にとって田口ランディさんという作家は、私の中にある漠然とした思い、正体を掴みかねるようなものを、言語化して分かりやすくしてくれる人の一人。
彼女のおかげでそれまでなんだかよくわからなかった自分の人生というものがずっと掴みやすくなった。
相変わらず「迷う」という意味では変らないけれど、正体も分からない中で迷ってることも知らずに迷っているのではなく、迷ってるんだな、ということを把握した上で迷えるようになった…という意味で、彼女が助けてくれたものは大きかったりする。
答えはいつだって出ない。
出るときもあるけど、その答えはランディさんの言うように「暫定的」で、その暫定的な立場で発言したものについて、責任を負って生きていかなきゃいけない。つまり、絶対的な安心感をくれる答えなんかないのだ。
自分は分かってない、ということを知っていても、その時その時、腹を立てることもあれば、他人に何かを要求したくなるときもある。でも、それが正しいことなのか、「こうしたい」「こうしてほしい」と思うことがあっても、それは何を大事にしてるんだろう?と考え出すと、私はどこかで自分を放棄する。
自分がしたいことを押し通すより、他人がして欲しいことに従う方が私にとってはずっと楽なんだ。
多分、今までで「自分の気持ちに従って行動した」と思っている事は勿論あって、でも、それについてあまり良い結果を得られていないのかもしれない。それは、自分の気持ちを他人に押し付けて、受け容れられても気まずかったり、拒否されたらすごく悲しくなったりしているような感じなんだと思う。
その経験が私に教えてくれるのは、私が意識する「自分がしたいこと」というのは、すごく他人が絡んでいるということ。自分が意識しないところの「自分がしたいこと」は、多分すごく普通に出来ているはずで。
自分が意識していない行動の中にこそ、幸せは沢山あって、意識する行動は逆にすごく不安定だったり、迷ってたりしてるんじゃないかなぁ、と。
つまりは、他人の中でしか「自分」を感じてないということなのかも。
他人との関わりの中で初めて登場する「自分」がいくら「私はこうして欲しい!」と他人の中で叫んでも、それは他人に求めているだけだったり、つまりは意識下にある「自分」とは他人に依存した存在なのか。
それって、私だけじゃないのかもしれないけど。他人に依存しない自分を持ってる人も沢山知ってる。
でも、私の場合は、まずは他人の中に自分を求めることを止めて、他人の外、そして自分の中にこそある自分をもっと自由にしてあげることが出来るようになりたいなぁ。
それはとっても解放感な気がするなぁ。
いや…、自分はすでに自由であることにただ気づけばいいだけの話なのかもしれない。
なんか、そう思うと最近、自分のアンテナが向く色んなことに納得するなぁ。
「なんでこんなにも惹かれるんだろう?」と思うものの全てが、そういうベクトルな感じ。
気づいた先にも、勿論悩みや葛藤はあるんだろう。
思い返せば20代の自分はなんと自分を「もの知り」だと思ってたことか。知らないということを思考する回路が閉じていたため、知らないと考えることすらなかった。知っていることばかりしゃべって、知っていることをひけらかして、知っていることに夢中になっていた。あの頃はほんとうに幸せで間抜けで、恥ずかしくて平和だった。
どうしようもなんだ。わからないということをわかるしかないんだ。わからないことに謙虚になるしかないんだ。わからないことに絶えながら生きていくしかないんだ。わからないんだ。すべては。そのうえで、覚悟して意見や立場を決定していかなきゃならなんだ。ほんとうのことはわからないから、暫定的に、立場を決めるしかないし、たとえ暫定的であったにしても自分が決めた立場には「決めてしまったこと」の責任を取るしかないんだ。そういう責任の取り方は、経験でしか学べないから、そのために生きるしかないんだ。
本当にまさに同じことを思う。多分、20代の時に今の「自分を恥じる」視点があったら、生きていけなかったと思う。迷い、悩み、あがくことに最適な年齢なんだろうな、と思える30代を過ごせているのは、まさに「おかげさま」。
生まれて良かったなぁ、と思える人生はいいもんです。
by XXhousewife
| 2009-07-20 00:23
| 独り言